はじめに:製造現場から「熟練の技」が消える前に
「定年後も働いてくれるのはありがたいが、現役時代と同じ給料は払えない」
「給料を下げたら、あからさまに手を抜くようになり、現場の空気が悪くなった」
製造業の経営者様、工場長様から、このような悲鳴にも似た相談を毎日のように受けます。少子高齢化が加速する日本において、製造業の現場を支えてきた熟練技術者の引退は、単なる労働力不足ではありません。「企業の技術的遺伝子」が失われる危機です。
多くの企業が60歳以降の継続雇用(再雇用)制度を導入していますが、その実態は「給与は一律で現役時代の5〜6割」という慣例的な運用がほとんどではないでしょうか。しかし、この「なんとなくの減額」が、シニア社員のモチベーションを破壊し、さらには「同一労働同一賃金」という法的な地雷を踏む原因となっています。
本記事では、人事・労務コンサルタントの視点から、法的リスクを回避しつつ、シニア社員が「給料が下がっても納得して働く」ための制度設計について解説します。目指すのは、会社の人件費負担を適正化し、かつシニアが「若手の師」として輝く、持続可能な組織作りです。
【コンサルタントの視点】若手への原資配分とのバランスが鍵
シニアの処遇を考える際、多くの経営者が「本人をどう説得するか」に終始しがちです。しかし、より俯瞰的な視点が必要です。それは「若手・現役世代への原資配分」とのバランスです。
限られた人件費総額の中で、過去の功績に報いたい温情からシニアに市場価値以上の給与を払い続ければ、どうなるでしょうか。これから会社を背負う20代、30代の昇給原資が枯渇します。「働かないのに給料が高いおじさん」の存在は、若手の離職を引き起こす最大の要因の一つです。
シニアの給与適正化は、単なるコストカットではありません。「未来への投資原資」を生み出すための構造改革です。この視点を忘れないでください。
本記事では、「法的リスクの回避」「シニアの意欲維持」「若手への投資」という、一見すると相反する3つの課題を解決する最適解を提示します。
製造業の定年再雇用を巡る「2025年問題」と法的リスク
製造業における再雇用制度の見直しは、待ったなしの状況です。昭和の時代の「阿吽の呼吸」で成り立っていた労使関係は、令和の法改正によって通用しなくなっています。
深刻化する「人手不足」と「技能継承の断絶」
2025年問題とは、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となり、労働市場から完全に引退していく社会的課題を指します。製造業においては、高度経済成長期を知る熟練工がいなくなることを意味します。
AIやロボット化が進んでも、最終的な品質判断や、機械の微妙な調整(段取り)、トラブル時の応急処置といった「暗黙知」は、人に依存しています。シニア社員の再雇用は、単なる員数合わせではなく、この暗黙知を若手に移転するための「時間稼ぎ」として極めて重要な期間となります。
同一労働同一賃金(パート有期法)の衝撃
2020年(中小企業は2021年)から施行された「パートタイム・有期雇用労働法」は、再雇用制度の根幹を揺るがしました。定年後に再雇用された嘱託社員(有期雇用労働者)に対し、正社員と比較して「不合理な待遇差」を設けることを禁止したのです。
ここで重要なのは、「定年再雇用だから給料が下がるのは当たり前」という世間の常識が、法的には必ずしも正当化されないという点です。
「長澤運輸事件」や「名古屋自動車学校事件」といった最高裁の判決では、定年後再雇用という事情を考慮しつつも、業務内容や責任の程度が全く変わらないのに賃金を大幅に引き下げることは違法(不合理)であるとの判断が示されています。
「不合理な待遇差」と判断される具体的ライン
では、どこからがアウトなのでしょうか。明確な基準はありませんが、実務上の危険ラインは以下の通りです。
- 業務内容が全く同じ: 以前と同じラインに入り、同じスピード、同じ品質基準で作業している。
- 責任の重さが同じ: トラブル時の対応、若手への指示出し、納期管理責任が現役時と変わらない。
- 配置転換の範囲が同じ: 正社員同様に、急な部署異動や転勤の可能性がある。
これらが「同じ」であるにもかかわらず、基本給を50%カット、賞与ゼロ、手当全廃といった処遇をすれば、訴訟リスクは極めて高くなります。
失敗する再雇用制度の典型例:「仕事はそのまま、給料は半減」
多くの企業が陥っている失敗パターンを見ていきましょう。悪気はなくとも、結果として組織を弱体化させているケースが後を絶ちません。
モチベーション崩壊が生む「ぶら下がり社員」
最も多い失敗は、人事部や社長が「再雇用規定で決まっているから」と、機械的に給与辞令を渡すケースです。
熟練工のAさん(60歳)は、昨日までバリバリの職長として現場を回していました。しかし今日から「嘱託社員」となり、仕事内容は昨日と同じまま、給与明細の額面だけが半分になりました。
Aさんは思います。「会社は自分を評価していない」「これまでの貢献は何だったのか」。
結果、Aさんは「給料分しか働かない」と決め込みます。定時ピッタリに帰る、トラブルが起きても「俺は責任者じゃないから」と見て見ぬふりをする。いわゆる「ぶら下がり化」です。これは本人の性格の問題ではなく、制度が生み出した必然的な反応です。
現場責任者が陥る「今まで通り頼むよ」の罠
現場の実情を知る工場長や課長は、Aさんの腕を頼りにしています。「給料は下がっちゃうけど、現場はAさんがいないと回らないから、今まで通り頼むよ」と声をかけます。
これは、経営者にとって最悪の「口約束」です。
- 現場: 以前と同じ責任ある仕事を任せる。
- 人事: 責任がなくなった前提で給与を下げる。
この乖離(かいり)こそが、労務トラブルの火種です。もしAさんが労働基準監督署に相談したり、弁護士を通じて訴えたりした場合、会社側は「責任を軽くした」という証拠を出せません。実態として重い責任を負わせていたからです。労基署や裁判所が見るのは、きれいな規定集ではなく「現場の実態」です。
解決策:納得感を生む「役割等級制度(ジョブ型)」の導入手順
では、どうすればよいのでしょうか。答えはシンプルです。「給与を下げるなら、役割(責任)も確実に軽くする」。これを制度として明文化し、実行することです。
年功序列的な給与体系から、仕事の中身で決まる「役割給(職務給)」への転換が必要です。
ステップ1:現役時代と再雇用後の「職務分掌」を明確に分ける
まず行うべきは、仕事の棚卸しと切り分けです。「正社員(現役)」と「再雇用社員(シニア)」の仕事は別物であると定義します。
【責任の切り出し】
- 目標責任: 部門の売上目標や生産目標(ノルマ)の達成責任は負わせない。
- 緊急対応: 機械トラブルやクレーム発生時の「最終判断」や「休日呼び出し」の対象から外す。
- 人材管理: 部下の査定や労務管理の権限を持たせない。
【業務範囲の限定】
- 多能工から専任職へ: 欠員が出た工程をどこでも埋める「ジョーカー」的な役割から、特定の機械操作や検査業務のみを行う「専任者」へ変更する。
- 残業の免除: 原則として定時退社とし、残業命令の対象外とする。
具体例:製造ラインにおける役割変更のBefore/After
| 項目 | 現役時代 (〜60歳) | 再雇用後 (60歳〜) |
|---|---|---|
| 役割名 | 製造ライン長(職長) | ラインサポート / 技術指導員 |
| 主な業務 | 生産計画管理、ライン稼働、トラブル対応、部下育成 | 特定工程のオペレーション、新人へのOJT、安全パトロール |
| 責任範囲 | 納期遅延、不良発生時の最終責任あり | 自身の担当工程のみ責任あり |
| 権限 | ライン停止権限、部下への業務命令権 | なし(異常時は職長へ報告) |
| 異動 | あり(全工場対象) | 原則なし(契約時の部署固定) |
このように表にして提示できれば、「責任がこれだけ軽くなるのだから、給与が下がるのも合理的だ」という説明がつきます。
ステップ2:役割に応じた「再雇用賃金テーブル」の作成
次に、新しい役割に見合った賃金を設定します。ここでは「現役時の○割」という発想を捨ててください。その仕事(役割)の市場価値や、社内での価値をベースに金額を決めます。
【賃金構成の例】
- 基本給(役割給): 「オペレーター業務:月額18万円」「検査業務:月額16万円」など、仕事の内容に値段をつける。
- フルタイム手当: パートタイムとの均衡を図るため、フルタイム勤務者への加算。
- 職務手当: 後述する「技術指導員」や「安全管理者」などの特別な役割を担う場合に支給。
- 賞与: 「寸志」ではなく、会社業績と個人の評価(指導実績など)に連動させるが、基本月数は正社員より抑える。
こうすることで、「Aさんだからいくら」ではなく、「この仕事をする人はいくら」という基準ができ、同一労働同一賃金への対応が可能になります。
ステップ3:合意形成のための「定年前キャリア面談」
制度を作っても、いきなり60歳の誕生日に突きつけてはいけません。50代後半(55歳〜58歳頃)から、「定年後の働き方」について話し合うキャリア面談を実施します。
- 会社が期待する役割(技術伝承など)
- 想定される処遇(給与シミュレーション)
- 本人の希望(ペースダウンしたいか、稼ぎたいか)
これらを早期にすり合わせることで、60歳時点での「こんなはずじゃなかった」を防ぎます。特に重要なのが、後述する「公的給付」を含めた手取り額の提示です。
シニアのプライドを守り、戦力化する「マイスター評価制度」
給与が下がる中でモチベーションを維持する鍵は、「承認欲求」の充足です。「あなたが必要だ」というメッセージを、制度を通じて伝えます。製造業において最も有効なのが、「技能伝承(教えること)」を正式なミッションにすることです。
「作業量」ではなく「指導量」を評価軸にする
シニア社員に対し、現役時代と同じ「生産数」や「スピード」で評価しようとすれば、加齢による体力低下で評価が下がり、やる気を失うのは明白です。
そこで、評価の軸を「自分の成果」から「他者への貢献」へとシフトさせます。
新たな役職として「マイスター」「技術指導員」「安全アドバイザー」といったポストを用意します。名刺やヘルメットの線を変えるなど、視覚的にも特別感を出します。彼らの仕事は「自分が作ること」ではなく、「若手が作れるようにすること」です。
技能伝承を加速させる評価シートの設計
口先だけでなく、評価制度(人事考課)も刷新します。シニア専用の評価シートを作成し、以下のような項目を設けます。
【シニア専用評価項目の例】
- 暗黙知の言語化: 「カン・コツ」を作業手順書や動画マニュアルに落とし込んだか。
- 後進育成: 担当した若手社員が、検定試験に合格したか、一人立ちできたか。
- 安全管理: ヒヤリハットの指摘件数、改善提案の件数。
「若手に教えれば教えるほど、自分の評価(給与・賞与)が上がる」という仕組みにします。これにより、「自分の技を教えると用済みになる」というシニア特有の不安を払拭し、「教えることが自分の利益になる」というマインドセットへ転換させます。
若手への原資配分とシニア賃金の「黄金比率」
制度設計の裏側で、経営者が必ず計算しなければならないのが「総額人件費」です。シニアに報いたい気持ちはあれど、会社経営は慈善事業ではありません。
総額人件費管理の視点:シニア優遇が若手を殺す
シニア社員の年収を高止まりさせると、若手社員へのしわ寄せがいきます。
例えば、再雇用者の年収を400万円にするか、300万円にするか。10人いれば年間1000万円の差です。この1000万円があれば、若手社員20人の年収を50万円ずつベースアップできるかもしれません。
「これから20年働く若手」と「あと5年で引退するシニア」。会社の未来のためにどちらに投資すべきかは明白です。シニアの賃金は、「生活できる水準」と「役割への対価」に留め、余剰原資は若手への配分に回すのが、持続可能な経営判断です。
公的支援をフル活用した「手取り維持」戦略
シニア賃金を抑制しつつ、本人の生活レベルを守るテクニックがあります。それが「高年齢雇用継続給付」と「在職老齢年金」のフル活用です。
- 高年齢雇用継続給付: 60歳時点の賃金から75%未満に下がった場合、ハローワークから最大で賃金の15%相当額が支給される制度(※段階的に縮小予定だが、現時点では有効)。
- 在職老齢年金: 働きながら受け取る厚生年金。給与が高すぎると年金がカットされるが、適正な水準に設定すれば全額受給できる。
会社からの給与は下げても、これらの給付金と年金を組み合わせることで、「手取り総額」では現役時代の7〜8割を維持できるケースが多くあります。
会社は給与コストを下げられ、本人は手取りを確保できる。このWin-Winのシミュレーションを、個別に提示してあげることが、再雇用契約を円満に進める最大の秘訣です。
まとめ:シニア活用は「コスト」ではなく「資産の継承」
「給与を半分にしたから、半分だけ働いてくれればいい」
このような投げやりな考え方では、会社もシニア本人も不幸になります。
製造業におけるシニア再雇用制度の要諦は、以下の4点に集約されます。
- 役割の再定義: 「今まで通り」を禁止し、責任と業務範囲を明確に限定する。
- 納得の賃金: 役割に見合った「役割給」を導入し、同一労働同一賃金に対応する。
- 新たなミッション: 「生産」ではなく「指導・継承」を評価し、承認欲求を満たす。
- 総額管理と公的給付: 若手への投資原資を守りつつ、年金活用でシニアの手取りを支える。
熟練技術者は、御社が長い年月をかけて育て上げた「資産」です。その資産を最後にどう活かし、次世代にバトンをつなぐか。それは経営者の制度設計次第で決まります。
ただ安く雇うだけの制度から、技術と誇りをつなぐ制度へ。いまこそ見直しの時です。
法的リスク回避と若手への原資配分を両立する
2025年以降、高齢者雇用のルールはさらに厳格化していくことが予想されます。「これまで通り」の再雇用契約を続けていると、思わぬ労務トラブルや、優秀な若手の離職を招く可能性があります。
ヒューマンリソースコンサルタントでは、製造業の実情に合わせ、以下の支援を行っています。
- 同一労働同一賃金に対応した再雇用規定の作成
- シニア専用の評価シート(技術伝承評価)の導入
- 向こう10年を見据えた総額人件費シミュレーション
「ベテラン社員には感謝しているが、人件費のバランスを取りたい」
「法改正に対応できているか不安だ」
そのようにお考えの経営者様・人事担当者様は、ぜひ一度ご相談ください。




